前回に続きまして。好きなこと書いていきます。
前回紹介しましたが、何度読み直しても新日本新書の本多俊夫著の『ジャズ』は非常に分かりやすくジャズを説明していて面白い本です。たまたま神保町の古本屋で雨ざらしになっていたこの本は今でも愛読しております。
その理由は、書かれた時代が1970年代の日本のジャズシーンを解説しているのもありますが、日本のジャズがどうして発展していったのかといのをわかりやすく説明しているからなのですね。
特に私が知りたかった内容の一つに、第二次世界大戦、敗戦後に多くのミュージシャンが米軍の進駐軍が集まる場所で演奏したのが演奏家としてのスタートだったのをよく聞きます。
前回に続いて愛読していた本田俊夫さん著の新日本新書『ジャズ』とネットなどより、語ってみたいと思います。
また、参考文献として米軍キャンプで演奏していたバンドマンなどの取材を実際にされ米国のポピュラー音楽の日韓の影響を研究されている、
東谷護 氏の『ポピュラー音楽にみる「アメリカ」―日韓の米軍クラブにおける音楽実践の比較から考える―』もこちらのブログ作成に関して参考とさせていただきました。
第二次世界大戦が激化していた時代、日本の文化は弾圧されていき中でもジャズは退廃音楽として演奏者含め弾圧されていきました。そして日本は戦争に負け。1945年8月15日に無条件降伏、敗戦を迎えます。
自分たちの3-4世代前の時代、全土が焦土とかして何もかも破壊された時代ですが、そこから日本は新しい時代の足音と希望に向けて急速に動き始めます。その中の一つに占領軍で慰問で多くのバンドマンが訪れ、アメリカのポピュラー音楽や文化に触れ日本のジャズ音楽発展の礎になっていったことでした。
それはジャズのみならず、戦後テレビ放送を開始し音楽番組など、渡辺プロダクション(現ナベプロ)や、先日お亡くなりになりましたジャニー喜多川氏がジャニーズ事務所を設立し、アイドルによるエンターテインメントを確立していく等、日本の芸能界に大きな影響を与えたと私は思います。
そして、実はそんな時代の音楽に飛び込んでみたかったと思う1945年以降の米軍クラブの日本のバンドマンたち。
そんな原点を今回は話してみたいと思います。間違っていたところあったらご指摘ください。
終戦―進駐軍が全国で進駐クラブができる
さて、1940年に始めた米国との戦争敗色が濃厚となり、1945年8月15日に日本は無条件降伏、終戦となります。
全国で猛烈な米軍の空襲で焼け野原となった日本。住む家や家族、財産のみならず古くからの日本人古来の価値観も終戦によって何もかも変わった状況と多くの当時を語る人は述べております。
無条件降伏した軍隊の代わりに占領し治安を取り締まるためアメリカの進駐軍が日本全国にやってきて治安維持など占領として常駐します。

出典:https://www.zakzak.co.jp/soc/news/170705/soc1707050017-n1.html
厚木基地にに上陸したパイプを咥えたマッカーサー元帥がタラップから降りる様子は映像に残っていて有名ですが、
実質日本は占領され、戦勝国であるアメリカ軍が進駐軍として日本全国に進駐します。
焼け野原から残ったビルや、土地を接収し、米軍を慰問する目的で飲食,娯楽の提供を目的としたクラブが設置されます。いわゆる米軍クラブと呼ばれる娯楽施設です。最盛期には500ほどあったといわれております。
こちら、1949年頃の米軍キャンプの様子です。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=Y6Yr2f-nk2o
この米軍クラブは日米安全保障条約によって占領が終わる1952年までつづきました。そこには高級士官、下士官、兵員に分けられたクラブがも設けられていたようです。
米軍クラブまでの間にフェンスが設けられ一般の日本人の立ち入りは禁止されました。米軍クラブ内は『オフリミット』とよばれるアメリカ領内であり、国内でありながら治外法権でありました。
米軍クラブ内では飲食、酒など提供されましたが、終戦直後の状況から米国からの人手不足などの理由から、現地の日本から慰問団を集めざる得ない事情がありました。
太平洋前線の激戦を生き抜いてきた兵士たち。本国にに帰りたいと思う人たちはきっと心穏やかではなかったと思います。
そうした兵士たちの慰問を目的として娯楽施設はできたのだといます。そうした兵士たちの不満を和らげる必要があったと思われます。
仕事求めて日本のジャズ演奏家たちが米軍クラブで演奏する
クラブで提供されたエンターテインメントの内容は、軽音楽、クラシック音楽、奇術、曲芸から武道と多彩でしたが中でも、当時のアメリカポピュラー音楽として最新の音楽だったジャズ演奏が求められました。
さて終戦までに、禁制音楽として忌み嫌われていた日本のジャズ演奏家たち。
(戦中までの日本のジャズの扱いについてはこちらに書きました。)
海軍軍楽隊出身で、ジャズビックバンドのシャープス&フラッツを率いた原信夫さんや戦前からジャズミュージシャンとして活躍していたトランぺッターの南郷文雄さんも再び米軍クラブでジャズ演奏を始めます。
楽器ができなくても
そうした米軍キャンプで演奏するためには米軍との芸人をあっせんする業者は
- 大手芸能プロダクション
- 米軍将校とのコネクション
の他に戦後の混乱期で人手が足らないことから、英語通訳ができるものにもチャンスがあったようです。こうした経由の仲介斡旋業者は当日東京駅や新宿駅のターミナルでクラブ出演者を日払いで募っていたそうです。
こうした、日雇いの演奏者などの募集の方法を『拾い』とよばれていたそうですが、この募集方法を好んでいた人たちがおりました。
前述の通り、混乱期で芸能プロダクションから慰問する人手が足りない背景です。
演奏する形になっていればよいととにかく募集をかけて採用されている状況だったと推察されます。そんな中、何とか明日の生活を得るためにがむしゃらにその日の職に就こうと募集に応じていたようですね。
今では信じられないかもしれませんが、楽器が演奏できなくても採用されて米軍クラブから演奏キャリアを始めた人たちが多かったのも、高額な報酬を得る理由でバンド演奏を始めた人たちが多くの理由からでした。
その辺の様子を再現している映画が2004年に上映された、坂本順治監督の『この世の果て クラブ進駐軍』という映画です。拾いの様子が映画に登場しております。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=Rmvc4ytYObQ
貧困からの生活からなりふり構わずから、その後必死に演奏技術を磨いていったそれぞれの人たちがのちの日本のジャズならずポピュラー音楽の発展に大きく貢献してくことになります。(それは、また別の話で。)
余談でいうと、アメリカの有名なテナーサックス奏者スタン・ゲッツも第二次世界大戦が激化しアメリカ国内で男性の人手が全く足らない状況から高学年で覚えた楽器経験だけで、家族を養うためにビックバンドに入団して音楽キャリアを始めた人です。戦争の徴兵で成人男性がすべて徴兵のため不足していた状況だったようです。
現在アマチュアでは技術面のみ語られることが多いですが、アマチュア人の心をつかむ演奏というのは、演奏にその人の生き方が反映していることがあるような気がします。
さて、米軍クラブでの演奏を始めた日本ミュージシャンたちはその後日本でどのよう活躍をしていくのでしょうか?
それが現在の日本でどのような影響があったのか?
次回、日本のジャズミュージシャンはいかにしてジャズを学んだのかを調べてみたいと思います。
それでは、今日はこの辺で